2013年08月05日

こども向け焼津流平和学

かまぼこ屋根の会さん主催「こども向け焼津流平和学」に参加してきました。


焼津、平和・・・といえば第五福竜丸事件。


その第五福竜丸が帰ってきた港の見える、魚市場会館で行われました。
クーラーもないのでとっても暑かった!!
・・・にも関わらず、たくさんの子どもと親御さんがお見えになって、メモをとったり熱心に話に聞き入っておられました。



「東洋一の漁港」とうたわれた焼津港も、むかしむかしは港などなく、採った魚は浜にそのまま並べられていたそうです。
う~ん、浜にそのままって・・・なんだか想像つかない光景。

その焼津を漁港として名を馳せようと、港作りが始まります。
海を埋め立てたり、掘ったり・・・。
今のような機械や重機はありませんから、人力で頑張っていたそうです。

やがて・・・。
戦争が始まります・・・。

「海の戦争」と言えば軍艦を思い出しますが、実は焼津の漁船も戦争に駆り出されます。
「徴用船」と言うのだそうです。
食糧を運んだり、敵の様子を海から探って無線で情報を送ったり、軍艦の護衛としてその周りを囲んだり。
魚を採るために作ったその船は、漁民が愛したその船は、戦争に駆り出されたのです。
そして、それによって多くの船が敵に沈められ、多くの人の命が失われました。

そして、長崎と広島に原爆が投下され、戦争は終わります。
多くの悲しみと共に。

戦後、日本は復興に必死になります。
焼津は港作りを再開し、漁港として、魚のまちとして、頑張ろうと一生懸命になります。
近代化も手伝って、遠洋漁業に行けるようになります。

第五福竜丸もそのうちの一隻でした。
たくさんの鮪を積んだ第五福竜丸が、ビキニ環礁沖で見たのは、水爆実験による大きな光と死の灰でした。
乗組員の方々はその死の灰を浴び、のちのち苦しい思いをされることとなります。

魚のまちとして頑張っていこうとする焼津に、第五福竜丸は帰ってきました、死の灰を積んで。
あの、長崎と広島に落とされた原爆と同じ、核で作られた爆弾です。「被爆」したのです
そして、それによって第五福竜丸の乗組員久保山愛吉さんが亡くなります。
「放射能による被害者は私を最後にして欲しい」という言葉を残して。

焼津の魚は売れなくなりました。たくさんのマグロが海に捨てられました。
それでも焼津は頑張ります。なにがなんでも頑張ります。
たくさんの困難をバネにして。それが焼津魂です。
近代化もすすみ、やがて焼津港は100年にわたる漁港となり、「東洋一の漁港」と言われるまでになりました。
(放射能の話はどっかいっちゃってるけど、そこのところはまたおいおい)

そして、第五福竜丸の事件をきっかけに、原水爆実験反対署名が広がりました。
その数なんと、7億人!!
インターネットの無い時代、それだけの人の署名を集めるってどんだけすごかったか!!!!!!
それだけ、世界中の人が「核兵器はいらない!!」と言ってたのです。

でも、それを逆手に「核の平和利用」という名目で、原子力発電所が作られていったのです。

そして、2年前のあの原発事故へと繋がっていくのです。


東洋一の漁港とうたわれた焼津港でしたが、今は焼津に遠洋漁業の乗組員はいません。
時代は変わってきています。

そして、未だにアメリカは久保山さんが亡くなったのは、水爆実験の被曝によるものだと認めていません。
漁船員さんたちは、いろんな風評にさらされ、息をひそめるように暮らしてこられています。
「第五福竜丸の乗組員だった」ということを、自分の子供にさえも明かしていない方もいます。
悪いのは乗組員さんじゃないのに。


来年3月1日で、ビキニデーは60周年を迎えます。
忘れてしまえと言われているような気がしますが、忘れてはいけない事件です。

どんなことからもはい上がってきた焼津魂。
今は廃れてしまった漁港も、きっとまた焼津魂で活気ある街にすることができると思う。

そして、平和活動の原点となった、署名活動が始まったのもここ焼津。

私たちの手できっと何かができる。
子どもたちは希望。子どもたちこそが未来。未来の希望。
そこへ私たち大人がきちんと繋いでいかないと。

焼津市民として、この事を正しく知ってもらいたい、そう思いました。



あまりにもざっくりで、わかりにくかったかなface15
いろいろ言いたいことはいっぱいあるし、第五福竜丸については、この講座の前に何冊か本も読ませていただいていたので、ものすごく言いたいことはたくさんありますが、この辺で・・・。  

Posted by せんたく日和 at 14:43Comments(0)イベント焼津のこと